秋高連

文字サイズ

コラム 第3回 2026年4月7日 秋田南高校卒・元祖爆笑王こと高橋裕幸氏

 3年間通っていた五城目第一中学校の部活は盛んであった。特にバスケット部が最強で、同級生でもありキャプテンだった進藤実君は卒業後、能代工業高校へ、インターハイ連続優勝の立役者にもなった。その後、漫画「スラムダンク」で能代工業がモデルになったのは言うまでもない。上京して初対面の人でも「私は能代出身です。」というと、「バスケの能代工業ね」というくらい知名度は高く、能代工業の進藤君は全国区でスーパースターであった。今は、何しているのだろうか?首都圏に住んでいるとは聞いたが音信不通である。このコラムを見て、情報を知っている方は連絡を欲しい。 

 また野球部でスターになった後輩もいた。長谷川寿くんは弟の親友だったのでよく遊んでいたのを覚えているが、卒業後金足農業高校に行き、野球部主将となった年には、甲子園出場、準決勝ではPL学園の清原桑田にホームランを打たれた時の捕手でもあり、そのあと、青学大で大学野球、本田技研で社会人野球と野球一筋。今は金足農高東京同窓会の役員をやっていて、よく会う機会が多い。あの王貞治氏とも知り合いで、大仙市にイベントに呼んだり、高校野球部OBで結成されるマスターズも仕切ったりしている。私はというと吹奏楽部で打楽器を担当、打楽器でもあるドラムセットばかり練習する日々だった。 

 ある日、五城目町広域体育館に「ザ・ドリフターズ」が来るとの情報が入り、どうやら商店街の福引で当たれば入場券がもらえるとのことだった。テレビで見るドリフターズを見たかったが、どうせ当たるわけないか、と思っていた夜、仕事から帰ってきた父親が「当たったどー!俺、いがねがら友達と行ってけ!」私は、友達を誘って見に行った。生で見るドリフターズは最高だった。テレビでは決してみることができない、大掛かりなセットでコントをやっていて、観客と一体になって笑いをとっていた。加藤茶さんが一番、面白かった。「ちょっとだけよ」「うんこちんちん」などのギャグが腹がよじれるほど笑った。私は、翌日学校に行ってみんなの前で加藤茶さんのギャグを真似してやった。爆笑に爆笑、みんな笑ってくれた。この時、ふと思った。笑いを提供する仕事につければ毎日が楽しいかもと。私は、父親に「将来は、ドリフターズに入ってテレビに出るから!」、その返事は、もちろん、「馬鹿ッけ、そったら職業さ就くのは許さん!」ドリフターズに入るのは諦めた。しかし、何かしらお笑いの仕事をしたい気持ちは常にあった。私は親に食ってかかり「テレビの仕事ならいいべ?」父は「あぁ、ナショナルや日立の会社に入るならな。」「いやいや、違うよ、テレビを作る仕事でなく、テレビの中の番組を作る仕事だよ。」話が合わない。父親は反対、公務員や会社員、そして父親の銀行員のような安定した職業につけと言う。 

 私は「うんうん」と言いながらも、中学3年の時は、テレビ局に入ることを決め、就職するには大卒ではないといけないと、大学への進学校に進むために猛勉強した。 

 秋田南高校を受験、合格して入学できた。私が19期となる新しい高校であたったが、クラスが1学年9クラスもあった時代である。 

部活は、中学時代と同じ吹奏楽部へ。ところが、である、秋田南高校吹奏楽部は全国大会の常連の強豪であり、高橋紘一先生が物凄く厳しい先生で、練習量も半端なく、朝練、昼練、夜は遅くまでと、当然、五城目から通学することはできず、下宿生活をしていたのだ。親と離れ離れの生活で寂しかったが、部活と勉強の毎日は、あっという間だったようにも思える。 

  高校二年の時、秋田南高校は5年連続全国大会金賞だったので、コンクールの対象にはならない、招待演奏というか形で出場した。私はドラムセットを担当、吹奏楽部OBでもあり、梅若会の三味線奏者と「吹奏楽と三味線のための津軽じょんがら節」を演奏、東北大会の招待演奏まで順調だった。全国大会まで余裕があったので、大会終わり何人かで私の下宿先で反省会をした。コカ・コーラやポテトチップスを食べながら、ワイワイガヤガヤ。私がお手洗いに行こうと立ち上がったら、その場にいたT君にふざけて足を引っ張られ、体勢を崩し、そのまま転倒、コカ・コーラはペットボトルでなく当時はガラスの瓶、そのガラスが割れ、その分厚い破片に左手首がグサッとささり、流血した。お気に入りのトロイの白いトレーナーが真っ赤に染まった。救急車で搬送され、途中から意識がなくなり、気が付いた時は、手術も終わり手首に頑丈なギプスがされていて、目の前には吹奏楽部顧問高橋紘一先生が居た。 「裕幸、大丈夫だが?全国大会は出なくていいから!まず治せ!」と心配されて嬉しかったが、先生的には私より演奏が上手いのがいるからその人を出したみたいにとられ、悔しかった記憶もある。たぶん、東北大会まで出場して負傷して全国大会に出場できなかったは創部史で、おそらく私だけだろう。

コラム 第2回 2026年3月4日 秋田南高校卒・元祖爆笑王こと高橋裕幸氏

 いよいよ4月から小学校4年に進級しようとした3月に父の転勤で十和田市(現鹿角市)から秋田市内へ。私も秋田市立高清水小学校に転校することになった。担任の先生が私を紹介し、空いている席に着く、隣の女の子に「よろしくです!」まさにドラマや映画で見る1シーンだ。友達ができるか心配だったか、たまたま家の向かいに住んでいるクラスメートがいて、すぐ友達になった。今もその友人とは連絡とっている。ちなみに、高清水小学校の卒業生にはタレントの小倉智昭さんもいた。放送作家になってから秋田県人会(芸能界、業界人のみ)に出席した際に知った。それから仕事では何度かご一緒したが、2024年12月にお亡くなりになり、とても悲しかった。

   小学4年から6年までは野球部に所属した。半ば野球好きの父親に無理矢理入れられた形だった。秋田はテレビで巨人戦しか放送していなかったのと一家に一台しかない時代、どこの家でも父親がチャンネル権をもち、野球中継ばかりだった。その影響で私も野球に、はまっていき常にジャイアンツの野球帽をかぶっていた。
部活のある日、プロ野球広島カープの古葉監督(当時)や選手たちから野球を教えてもらう機会があった。その教え方がうまいのと、初めて見るプロ野球選手のかっこよさに憧れ、私はそれ以来、広島カープのファンになり一人だけカープの赤い帽子をかぶっていたこともあった。父親には反対されたがそれでも。

   部活の練習終わりに「みんな腹減ってるだろう、これでも食べれ~」と差し入れで先生が私たちに配ったのが「カップラーメン」だった。やかんで沸かしたお湯を先生が注ぎ、3分待つ、そして初めて食べたカップラーメンはうまかった。今では当たり前のように食べているが、なぜお湯入れて3分でラーメンができるのが不思議だった。
この頃、巨人軍の長嶋茂雄が引退するセレモニーで最後の挨拶、「昭和33年栄光の巨人軍に入団して以来今日まで17年間・・・」で始まり「我が巨人軍は永久に不滅です!」この挨拶すべてを固定電話で聞くことができた。私は、毎日電話をかけて聞いていたいた記憶もあり全文を覚えている。さすがに、電話代が高くなったので両親に怒られたが、実は、長嶋ファンだった父も同じように何度も電話をかけてメッセージを聞いていたらしく、電話代が高くなるのはしょうがなかった。母親は未だに知らない。
そして、高清水小学校を卒業、同級生らとそのまま高清水中学校に入学かと思いきや、また父親が転勤、五城目町に住むことになり、五城目第一中学校へ。五城目第一というから、第二や第三があるのかと思ったのだが、一つしかないのに第一、これは高校へ入学した際にさんざんいじられた話であった。

   五城目第一中学校は校則が厳しい学校で、運動部でなくても丸刈り、自転車にはヘルメット、通学は専用ナップザックだった。長髪だった私は。泣く泣く人生初の丸刈り、両親に思いっきり笑われた。そして、学生カバンも買っていたが、それも処分、五城目町での生活が始まった。

   部活は、野球部かバスケ部に入りたかったが、当時強豪中と言われていただけに練習量が半端ないのと、私は喘息持ちで発作が起きる体質ということで、運動系の部活を断念し文化系の吹奏楽部に入った。喘息なので吹く楽器は無理とのことで、打楽器のパートへ。ドラムを中心に張り切っていた。今でも叩ける。

   いきなり秋田市から五城目町へ転居した私は、友達が少なかったというより、私のことを誰も知らなかった、当然である。そこで、私は、1年生で生徒会長に立候補したのだった。全校生徒の前で、「自己紹介ならびに生徒会の方針」などを声高らかに演説した結果、ほとんどの生徒が私のことを周知してくれた。もちろん落選はしたものの、「1年生の分際で生徒会長に立候補した奴」と永遠に消えることはない。吹奏楽部で一緒になった親友(島崎徳之君)もできた。3年次は島崎君が会長、私が副会長になった。この島崎君が後に五城目小学校の校長になり、150周年記念講演会に呼んでくれた際にこのような話もした。(写真)実は、中学時代に今の職業のきっけになるある衝撃な出来事が起こる。それは次回号に書くので、お楽しみに。


コラム 第1回 2026年1月15日 秋田南高校卒・元祖爆笑王こと高橋裕幸氏

 現役の放送作家であり、アドバイザーなど秋田県関連の仕事をしていて東京在住ながら月一は秋田を往復している縁もあり、今回この秋高連のHPに寄稿することになりました。「世界一秋田愛が強い男」としては、とても光栄でし、依頼してくださいました先輩方には感謝の気持ちでいっぱいです。今後毎月1回、私と秋田、県関連の仕事の話を中心に寄稿していきますので、どうぞ、よろしくお願いします。
 第1回目ということで、まずは、自己紹介がてら、私が出生してから幼少期のことまでを書きます。
 1964年東京オリンピック開催した年に、母方の実家である能代市柳町にある八幡神社、渟城幼稚園で生まれました。祖父が神主、幼稚園を経営、母が幼稚園教諭、父が銀行員の間に長男として生まれました。能代市は過去、木材の街として栄えていたので、近所には料亭などがたくさんあり柳町は繁華街としても有名でした。現在も「金勇」は秋田杉の良材を有効活用した雄大かつ優雅な造りで、文化と木材加工技術の粋を伝える建物として残っています。私が放送作家になってからも、旅番組やバラエティー番組で企画を出して、金勇で収録し何度か全国に放送したこともあります。
 また神社には「逆さ松」という、松の木が逆に生えていていて、葉の部分が地面にありそこから枝、樹木が上に生えて参道に跨った状態になっているのがあります。神主の叔父の話では、「運が悪い人ならここを通れば、運が逆さになって良いことが起きる。」と事でした。私はそれをまた企画にして、「秋田のパワースポット紹介番組」を作りました。パワースポットに詳しい占い芸人の島田秀平くんと一緒にロケをしました紹介しました。その番組を視て神社を訪れる人が多くなったそうです。やはりテレビ番組の影響は強いです。
 そんな能代市も今や、人口減少、過疎化が進み、栄えていた柳町商店街はシャッター街になりました。寂しい話です。私は、今現在、「能代を何とか再復活できないか?」と、「ふるさと観光特使」として協力しております。
 そして、私は生まれてそのまま渟城幼稚園に入園、能代に住むのかと思いきや、父の職場(銀行)の転勤が決まり、鹿角郡毛馬内町(現鹿角市十和田毛馬内)に住むことになったのです。社宅でしたが、お風呂がありませんでしたので、両親と近くの銭湯に行った記憶もあり、冬は隣の住人の方(風呂付の大きな家)と仲良かったのか、風呂を借りに行ったこともあります。今では考えられませんね。風呂なしの家を探すのが底辺かもしれません。
 十和田マリア園を卒園、毛馬内小学校へ入学、友達も増え、遠足なども十和田湖や八幡平、に行ったり、毛馬内盆踊りを体験したりと思い出をたくさん作りました。
 放送作家になってから、旅番組でタレントの壇蜜さんと鹿角市にロケに行きましたが、やはり街全体がまったく変わっていました。街全体が小さくも感じました。それは、そうですよね、私自身体も大きくなってますし、十和田湖なども意外と小さく感じました。
 その後、毛馬内小学校で4年生に進級しようとした春にまた転勤が決まり、引っ越しするこになったのです。人生で二回目だったかもしれませんが、友達と離れ離れになるのが、かなりつらかったです。みんなと別れの日、「転校したくない、一人でここに残る!」と泣きながら、言い張っていました。今でも記憶に残っています。
 家族と一緒に秋田市へと引っ越ししました。ワクワクドキドキの秋田市での生活が始まります。この続きは次号で・・


能代市柳町 八幡神社の「逆さ松」


壇蜜さんとロケ(鹿角市、尾去沢鉱山))


壇蜜さんとロケ(鹿角市 民俗資料館)


壇蜜さんとロケ(鹿角市 幸楽ホルモン)

元祖爆笑王(本名・高橋裕幸)1964年11月4日生
能代市柳町出身・秋田南高校、日本大学芸術学部卒業
大学時代に放送作家デビュー
「めちゃイケ」「オールナイトニッポン」など
数々の番組を企画し、プロデューサー
コメンテーター・ラジオパーソナリティーとしても活躍
大学・専門学校で講師・教育顧問も兼任
秋田県PRメディアプロデューサー
秋田市観光PRアドバイザー、能代ふるさと観光特使
男鹿市観光大使、潟上市ふるさと応援大使、
美郷町ふるさと大使、横手市応援団第1号

ギャラリー